P--1051 P--1052 P--1053 #1正信偈大意 正信偈大意 抑この 正信偈と いふは 句のかす 百二十 行のかす 六十なり これは 三朝高祖の 解釈によりて  ほゝ 一宗大綱の 要義をのへ まし〜けり この偈のはしめ 帰命と いふより 無過斯といふに い たるまては 四十四句 二十二行なり これは 大経のこゝろなり 印度已下の 四句は 総して 三朝の 祖師 浄土の教を あらはす こゝろを 標したまへり また 釈迦といふより 偈の をはるまては こ れ 七高祖の 讃のこゝろなり 問ていはく 正信偈と いふは これは いつれの義そや こたへていはく 正といふは 傍に対し 邪に対し 雑に対する ことはなり 信といふは 疑に対し ま た 行に対する ことはなり 帰命無量寿如来と いふは 寿命の 無量なる 体なり また 唐土のことはなり 阿弥陀如来に 南無し  たてまつれと いふこゝろなり 南無不可思議光と いふは 智慧の光明の その徳 すくれたまへる すかたなり 帰命無量寿如来と い P--1054 ふは すなはち 南無阿弥陀仏の 体なりと しらせ この南無阿弥陀仏と まふすは こゝろをもても  はかるへからす ことはをもても ときのふへからす この二の道理 きはまりたる ところを 南無不可 思議光とは まふしたてまつるなり これを 報身如来と まふすなり これを 尽十方無礙光如来と な つけ たてまつるなり この如来を 方便法身とは まふすなり 方便とまふすは かたちを あらはし  御名を しめして 衆生に しらしめたまふを まふすなり すなはち 阿弥陀仏なり この如来は 光明 なり 光明は 智慧なり 智慧は ひかりの かたちなり 智慧また かたちなけれは 不可思議光仏と  まふすなり この如来 十方微塵世界に みち〜 たまへるかゆへに 無辺光仏と まふす しかれは  世親菩薩は 尽十方無礙光如来と なつけ たてまつり たまへり されは この如来に 南無し 帰命し  たてまつれは 摂取不捨のゆへに 真実報土の 往生を とくへきものなり 法蔵菩薩因位時 在世自在王仏所 覩見諸仏浄土因 国土人天之善悪と いふは 世自在王仏と まふすは  弥陀如来の むかしの 師匠の 御事なり しかれは この仏の みもとにして 二百一十億の 諸仏の  浄土のなかの 善悪を 覩見しまし〜て そのなかに わろきをは えらひすて よきをは えらひとり  たまひて わか浄土とし ましますと いへる こゝろにて あるなり 建立無上殊勝願 超発希有大弘誓と いふは 諸仏の浄土を えらひとりて 西方極楽世界の 殊勝の浄土 を 建立し たまふかゆへに 超世希有の 大願とも また横超の 大誓願とも まふすなり P--1055 五劫思惟之摂受と いふは まつ 一劫といふは たかさ 四十里 ひろさ 四十里の石を 天人の 羽衣 をもて そのおもさ せに一の 四の字を 一のけて 三の字の おもさなるを きて 三年に 一度くた りて この石を なてつくせるを 一劫といふなり これを五 なてつくすほと 阿弥陀仏の むかし 法 蔵比丘と まふせしとき 思惟して やすきみのりを あらはして 十悪五逆の 罪人も 五障三従の 女 人をも もらさす みちひきて 浄土に 往生せしめんと ちかひ まし〜けり 重誓名声聞十方と いふは 弥陀如来 仏道を なりましまさんに 名声十方に きこえさる ところあら は 正覚を ならしと ちかひましますと いへる こゝろなり 普放無量無辺光と いふより 超日月光と いふに いたるまては これ十二光仏の 一一の 御名なり  無量光仏と いふは 利益の 長遠なることを あらはす 過現未来に わたりて その限量なし かすと して さらに ひとしきかす なきかゆへなり 無辺光仏と いふは 照用の 広大なる徳を あらはす  十方世界を つくして さらに 辺際なし 縁として てらさすと いふこと なきかゆへなり 無礙光仏 と いふは 神光の 障礙なき相を あらはす 人法として よく さふること なきかゆへなり 礙にを いて 内外の二障あり 外障といふは 山河大地 雲霧煙霞等なり 内障といふは 貪瞋痴慢等なり 光雲 無礙如虚空の 徳あれは よろつの外障に さへられす 諸邪業繋 無能礙者の ちからあれは もろ〜 の 内障に さへられす かるかゆへに 天親菩薩は 尽十方無礙光如来と ほめたまへり 無対光仏と  P--1056 いふは ひかりとして これに 相対すへき ものなし もろ〜の 菩薩の をよふところに あらさる か ゆへなり 炎王光仏と いふは または 光炎王仏と 号す 光明自在にして 無上なるか ゆへなり  大経に 猶如火王 焼滅一切 煩悩薪故と とけるは この ひかりの徳を 嘆するなり 火をもて たき ゝをやくに つくさすと いふこと なきかことく 光明の智火をもて 煩悩のたきゝを やくに さらに  滅せすと いふことなし 三途黒闇の 衆生も 光照を かうふり 解脱をうるは このひかりの 益なり  清浄光仏と いふは 無貪の善根より 生す かるかゆへに このひかりをもて 衆生の貪欲を 治するな り 歓喜光仏と いふは 無瞋の善根より 生す かるかゆへに このひかりをもて 衆生の瞋恚を 滅す るなり 智慧光仏と いふは 無痴の善根より 生す かるかゆへに このひかりをもて 無明の闇を 破 するなり 不断光仏と いふは 一切のときに ときとして てらさすと いふことなし 三世常恒にして  照益を なすかゆへなり 難思光仏と いふは 神光の 相をはなれて なつくへき ところなし はるか に 言語の境界に こえたるか ゆへなり こゝろをもて はかるへからされは 難思光仏といひ ことは をもて とくへからされは 無称光仏と 号す 無量寿如来会には 難思光仏をは 不可思議光と なつけ  無称光仏をは 不可称量光と いへり 超日月光仏と いふは 日月は たゝ四天下を てらして かみ上 天に およはす しも地獄に いたらす 仏光は あまねく 八方上下を てらして 障礙する ところな し かるかゆへに 日月に こえたり されは この十二光を はなちて 十方微塵世界を てらして 衆 P--1057 生を 利益したまふなり 一切群生蒙光照と いふは あらゆる衆生 宿善あれは みな光照の益に あつかり たてまつると いへ る こゝろなり 本願名号正定業と いふは 第十七の願の こゝろなり 十方の諸仏に わか名を ほめられんと ちかひ  まし〜て すてに その願 成就したまへる すかたは すなはち いまの 本願の名号の 体なり こ れすなはち われらか 往生をとくへき 行体なりと しるへし 至心信楽願為因 成等覚証大涅槃 必至滅度願成就と いふは 第十八の 真実の信心を うれは すなは ち 正定聚に 住す そのうへに 等正覚に いたり 大涅槃を 証することは 第十一の願の 必至滅度 の願 成就したまふか ゆへなり これを 平生業成とは まふすなり されは 正定聚と いふは 不退 のくらゐなり これは この土の益なり 滅度と いふは 涅槃の位なり これは かの土の益なりと し るへし 和讃にいはく 願土にいたれはすみやかに 無上涅槃を証してそ すなはち大悲をおこすなり これを廻向となつけたりと  いへり これをもて こゝろうへし 如来所以興出世 唯説弥陀本願海 五濁悪時群生海 応信如来如実言と いふは 釈尊 出世の元意は た ゝ 弥陀の本願を ときましまさんか ために 世に いてたまへり 五濁悪世界の衆生 一向に 弥陀の P--1058 本願を 信したてまつれと いへる こゝろなり 能発一念喜愛心と いふは 一念歓喜の 信心の ことなり 不断煩悩得涅槃と いふは 願力の 不思議なるか ゆへに わか身には 煩悩を 断せされとも 仏のか たよりは つゐに 涅槃に いたるへき分に さたまるものなり 凡聖逆謗斉廻入 如衆水入海一味と いふは 凡夫も聖人も 五逆も謗法も ひとしく 本願の 大智海に  廻入すれは もろ〜の みつの うみにいりて 一味なるか ことしと いへる こゝろなり 摂取心光常照護 已能雖破無明闇 貪愛瞋憎之雲霧 常覆真実信心天 譬如日光覆雲霧 雲霧之下明無闇と  いふは 弥陀如来 念仏の衆生を 摂取したまふ ひかりは つねに てらしたまひて すてによく 無明 の闇を 破すといへとも 貪欲と 瞋恚と くもきりの ことくして 真実信心の天に おほへること 日 光の あきらかなるを くもきりの おほふによりて かくすといへとも そのしたは あきらかなるか  ことしといへり 獲信見敬大慶喜と いふは 法をきゝて わすれす おほきに よろこふひとをは 釈尊は わかよき 親 友なりと のたまへり 即横超截五悪趣と いふは 一念慶喜の心 おこれは 願力不思議の ゆへに すなはち よこさまに 自 然として 地獄餓鬼畜生 修羅人天の きつなを きるといへる こゝろなり P--1059 一切善悪凡夫人 聞信如来弘誓願 仏言広大勝解者 是人名分陀利華と いふは 一切の 善人も悪人も  如来の本願を 聞信すれは 釈尊は このひとを 広大勝解の ひとなりといひ また 分陀利華に たと へ あるひは 上々人なりとも 希有人なりとも ほめたまへり 弥陀仏本願念仏 邪見驕慢悪衆生 信楽受持甚以難 難中之難無過斯と いふは 弥陀如来の 本願の念仏 をは 邪見のものと 驕慢のものと 悪人とは 真実に 信したてまつること かたきかなかに かたきこ と これに すきたるはなしと いへる こゝろなり 印度西天之論家 中夏日域之高僧 顕大聖興世正意 明如来本誓応機と いふは 印度西天と いふは 天 竺なり 中夏といふは 唐土なり 日域といふは 日本の ことなり この 三国の祖師等 念仏の一行を  すゝめ ことに 釈尊 出世の本懐は たゝ 弥陀の本願を あまねく ときあらはして 末世の 凡夫の 機に 応したることを あかし ましますと いへる こゝろなり 釈迦如来楞伽山 為衆告命南天竺 龍樹大士出於世 悉能摧破有無見 宣説大乗無上法 証歓喜地生安楽と  いふは この龍樹菩薩は 八宗の祖師 千部の論師也 釈尊の滅後 五百余歳に 出世したまふ 釈尊 こ れを かねてしろしめして 楞伽経に ときたまはく 南天竺国に 龍樹といふ 比丘あるへし よく 有 無の邪見を 破して 大乗無上の 法をときて 歓喜地を 証して 安楽に 往生すへしと 未来記 した まへり P--1060 顕示難行陸路苦 信楽易行水道楽と いふは かの龍樹の 十住毘婆沙論に 念仏を ほめたまふに 二種 の道を たてたまふ 一には 難行道 二には 易行道なり その難行道の 修しかたきことを たとふる に 陸地のみちを あゆふかことしと いへり 易行道の 修しやすきことを たとふるに みつのうへを  ふねにのりて ゆくかことしと いへり 憶念弥陀仏本願 自然即時入必定と いふは 本願力の 不思議を 憶念するひとは おのつから 必定に  いるへき ものなりと いへる こゝろなり 唯能常称如来号 応報大悲弘誓恩と いふは 真実の信心を 獲得せんひとは 行住坐臥に 名号をとなへ て 大悲弘誓の 恩徳を 報し たてまつるへしと いへる こゝろなり 天親菩薩造論説 帰命無礙光如来と いふは この天親菩薩も 龍樹と おなしく 千部の論師なり 仏滅 後九百年に あたりて 出世したまふ 浄土論一巻を つくりて あきらかに 三経の大意をのへ もはら  無礙光如来に 帰命し たてまつり たまへり 依修多羅顕真実 光闡横超大誓願 広由本願力廻向 為度群生彰一心と いふは この菩薩 大乗経により て 真実をあらはす その真実といふは 念仏なり 横超の大誓願を ひらきて 本願の廻向に よりて  群生を 済度せんか ために 論主も 一心に 無礙光に 帰命し おなしく 衆生も 一心に かの如来 に 帰命せよと すゝめたまへり P--1061 帰入功徳大宝海 必獲入大会衆数と いふは 大宝海といふは よろつの衆生を きらはす さはりなく  へたてす みちひき たまふを 大海のみつの へたてなきに たとへたり この功徳の 大宝海に 帰入 すれは かならす 弥陀大会の かすにいると いへる こゝろなり 得至蓮華蔵世界 即証真如法性身と いふは 蓮華蔵世界と いふは 安養世界の ことなり かの土に  いたりなは すみやかに 真如法性の 身をうへき ものなりと いふこゝろなり 遊煩悩林現神通 入生死園示応化と いふは これは 還相廻向の こゝろなり 弥陀の浄土に いたりな は 娑婆にも また たちかへり 神通自在をもて こゝろに まかせて 衆生をも 利益せしむへき も のなり 本師曇鸞梁天子 常向鸞処菩薩礼と いふは 曇鸞大師は もとは 四論宗の ひとなり 四論といふは  三論に 智論を くはふるなり 三論といふは 一には中論 二には百論 三には十二門論なり 和尚は  この四論に 通達し まし〜けり さるほとに 梁国の 天子蕭王は 御信仰ありて おはせし かたに  つねに むかひて 曇鸞菩薩とそ 礼し まし〜けり 三蔵流支授浄教 焚焼仙経帰楽邦と いふは かの曇鸞大師 はしめは 四論宗にて おはせしか 仏法の そこを ならひきはめたりと いふとも いのち みしかくは ひとを たすくること いくはく ならん とて 陶隠居と いふひとに あふて まつ 長生不死の法を ならひぬ すてに 三年のあひた 仙人の  P--1062 ところにして ならひえて かへりたまふ そのみちにて 菩提流支とまふす 三蔵に ゆきあひて のた まはく 仏法のなかに 長生不死の法は この土の仙経に すくれたる 法やあると とひたまへは 三蔵  地に つはきを はきて いはく この方には いつくの ところにか 長生不死の 法あらん たとひ  長年をえて しはらく 死せすと いふとも つゐに 三有に 輪廻すへしと いひて すなはち 浄土の  観無量寿経を さつけて いはく これこそ まことの 長生不死の 法なり これによりて 念仏すれは  はやく 生死をのかれて はかりなき いのちを うへしと のたまへは 曇鸞 これを うけとりて 仙 経十巻を たちまちに やきすてゝ 一向に 浄土に帰し たまひけり 天親菩薩論註解 報土因果顕誓願と いふは かの鸞師 天親菩薩の 浄土論に 註解といふ ふみを つ くりて くはしく 極楽の因果 一々の誓願を あらはし たまへり 往還廻向由他力 正定之因唯信心と いふは 往相還相の 二種の廻向は 凡夫としては 更に おこさゝ る ものなり こと〜く 如来の他力より おこさしめられたり 正定の因は 信心を おこさしむるに  よれる ものなりとなり 惑染凡夫信心発 証知生死即涅槃と いふは 一念の信 おこりぬれは いかなる 惑染の機なりと いふ とも 不可思議の 法なるかゆへに 生死すなはち 涅槃なりと いへる こゝろなり 必至無量光明土 諸有衆生皆普化と いふは 聖人 弥陀の真土を さため たまふとき 仏はこれ 不可 P--1063 思議光 土はまた 無量光明土なりと いへり かの土に いたりなは また 穢土に たちかへり あら ゆる 有情を 化すへしとなり 道綽決聖道難証 唯明浄土可通入と いふは この道綽は もとは 涅槃宗の 学者なり 曇鸞和尚の 面 授の弟子に あらす その時代 一百余歳を へたてたり しかれとも 并州玄中寺にして 曇鸞の 碑の 文をみて 浄土に帰し たまひしゆへに かの弟子たり これまた つゐに 涅槃の広業を さしをきて  ひとへに 西方の行を ひろめ たまひき されは 聖道は 難行なり 浄土は 易行なるか ゆへに た ゝ 当今の凡夫は 浄土の一門のみ 通入すへき みちなりと をしへたまへり 万善自力貶勤修 円満徳号勧専称と いふは 万善は 自力の行なるか ゆへに 末代の機 修行すること  かなひかたしと いへり 円満の徳号は 他力の行なるか ゆへに 末代の機には 相応せりと いへる  こゝろなり 三不三信誨慇懃 像末法滅同悲引と いふは 道綽禅師 三不三信と いふことを 釈したまへり 一には  信心あつからす 若存若亡するゆへに 二には 信心ひとつならす いはく 決定なきか ゆへに 三には  信心相続せす いはく 余念間故なるか ゆへにと いへり かくのことく ねんころに をしへ たまひ て 像法末法の 衆生を おなしく あはれみ まし〜けり 一生造悪値弘誓 至安養界証妙果と いふは 弥陀の弘誓に まうあひ たてまつるに よりて 一生造悪 P--1064 の機も 安養界に いたれは すみやかに 無上の妙果を 証すへき ものなりと いへる こゝろなり 善導独明仏正意 矜哀定散与逆悪と いふは 浄土門の祖師 そのかす これ おほしと いへとも 善導 にかきり ひとり 仏証を こふて あやまりなく 仏の正意を あかしたまへり されは 定散の機をも  五逆の機をも もらさす あはれみ たまひけりと いふこゝろなり 光明名号顕因縁と いふは 弥陀如来の 四十八願の なかに 第十二の願は わかひかり きはなからん と ちかひたまへり これすなはち 念仏の衆生を 摂取のためなり かの願 すてに 成就して あまね く 無礙の ひかりをもて 十方微塵世界を てらし たまひて 衆生の 煩悩悪業を 長時に てらし  まします されは このひかりの 縁にあふ衆生 やうやく 無明の昏闇 うすくなりて 宿善のたね き さすとき まさしく 報土に むまるへき 第十八の 念仏往生の 願因の名号を きくなり しかれは  名号執持すること さらに 自力にあらす ひとへに 光明に もよほさるゝに よりてなり このゆへに  光明の縁に きさゝれて 名号の因は あらはるゝと いふこゝろなり 開入本願大智海 行者正受金剛心と いふは 本願の大智海に 帰入しぬれは 真実の 金剛心を うけし むと いふこゝろなり 慶喜一念相応後 与韋提等獲三忍 即証法性之常楽と いふは 一心念仏の行者 一念慶喜の信心 さたま りぬれは 韋提希夫人と ひとしく 喜悟信の 三忍を うへきなり 喜悟信の 三忍といふは 一には喜 P--1065 忍 二には悟忍 三には信忍なり 喜忍といふは これ 信心歓喜の 得益を あらはす こゝろなり 悟 忍といふは 仏智を さとる こゝろなり 信忍といふは すなはち これ 信心成就の すかたなり し かれは 韋提は この三忍の益を えたまへるなり これによりて 真実信心を 具足せんひとは 韋提希 夫人に ひとしく 三忍をえて すなはち 法性の常楽を 証すへき ものなり 源信広開一代教 偏帰安養勧一切と いふは 楞厳の和尚は ひろく 釈迦一代の教を ひらきて もはら  念仏をえらんて 一切衆生をして 西方の往生を すゝめしめ たまへり 専雑執心判浅深 報化二土正弁立と いふは 雑行雑修の機を すてやらぬ 執心あるひとは かならす  化土懈慢国に 生するなり また 専修正行に なりきはまるかたの 執心あるひとは さためて 報土極 楽国に 生すへしとなり これすなはち 専雑二修の 浅深を 判したまへる こゝろなり 和讃にいはく 報の浄土の往生は おほからすとそあらはせる 化土にむまるゝ衆生をは すくなからすとをしへたりと  いへるは このこゝろなりと しるへし 極重悪人唯称仏と いふは 極重の悪人は 他の方便なし たゝ 弥陀を称して 極楽に 生することを  えよといへる 文のこゝろなり 我亦在彼摂取中 煩悩障眼雖不見 大悲無倦常照我と いふは 真実信心を えたるひとは 身は 娑婆に  あれとも かの摂取の光明の なかにあり しかれとも 煩悩 まなこを さへて おかみ たてまつらす P--1066 と いへとも 弥陀如来は ものうきこと なくして つねに わか身を てらし ましますと いへる  こゝろなり 本師源空明仏教 憐愍善悪凡夫人と いふは 日本には 念仏の祖師 そのかす これおほしと いへとも  法然聖人の ことく 一天に あまねく あふかれたまふ ひとは なきなり これすなはち 仏教に あ きらかなりし ゆへなり されは 弥陀の 化身といひ また 勢至の 来現といひ また 善導の 再誕 とも いへり かゝる 明師にて ましますか ゆへに われら 善悪の凡夫人を あはれみたまひて 浄 土に すゝめいれしめ たまひける ものなり 真宗教証興片州 選択本願弘悪世と いふは かの聖人 我朝に はしめて 浄土宗を たてたまひて ま た 選択集といふ ふみをつくり まし〜て 悪世に あまねく ひろめしめ たまへり 還来生死輪転家 決以疑情為所止 速入寂静無為楽 必以信心為能入と いふは 生死輪転の いへといふ は 六道輪廻の ことなり このふるさとへ かへることは 疑情のあるに よりてなり また 寂静無為 の 浄土へ いたることは 信心のあるに よりてなり されは 選択集にいはく 生死のいへには うた かひをもて 所止とし 涅槃のみやこには 信をもて 能入とすと いへる このこゝろなり 弘経大士宗師等 拯済無辺極濁悪 道俗時衆共同心 唯可信斯高僧説と いふは 弘経大士と いふは 天 竺 震旦 我朝の 菩薩祖師等の ことなり かの人師 未来の 極濁悪のわれらを あはれみ すくひ  P--1067 たまはんとて 出生したまへり しかれは 道俗等みな かの三国の 高祖の説を 信したてまつるへき  ものなり されは われらか 真実報土の 往生を をしへたまふことは しかしなから この祖師等の  御恩にあらすと いふことなし よく〜 その報恩謝徳し たてまつるへき ものなり  [奥書]   [右この 正信偈大意は 金森の道西 一身才覚のために 連々 そののそみ これありと いへとも 予いさゝか その   料簡なき間 かたく 斟酌を くはふるところに しきりに 所望のむね さりかたきによりて 文言の いやしきを    かへりみす また 義理の次第をも いはす たゝ 願主の命に まかせて ことはをやはらけ これを しるしあたふ    その所望あるあひた かくのことく しるすところなり あへて 外見あるへからさる ものなり]     [于時長禄第四之天林鐘之比染筆訖] P--1068